岩波講座 政治哲学1 「主権と自由」 近代自然法論:普遍的な規範学の追求
目次
1. 自然法と近代
自然法の黄金期
自然法研究
2. 近代自然法の背景
グロティウス
『戦争と平和の法』『自由海論』『捕獲法論』
3. 自然法の基礎
学の体系性と論証方法
自然法の妥当性根拠と世俗性
道徳の多元性
自己保存と社会性
自然的刑罰権
4. 自然法と政治権力
プーフェンドルフと「自然法の学」
『自然法に基づく人および市民の義務について』
5. 自然法と現代
ライプニッツによるプーフェンドルフ批判
読解
1. 自然法と近代
自然法の黄金期
第1段落
これらの者たちが活躍した17世紀、18世紀は自然法の黄金時代であった。
この時期の西欧において自然法は道徳や政治を語るための共通言語であった。
第2段落
自然法は古代ギリシアに遡り、その観念はストア学派によって展開されたものである。
またあるいは、キリスト教神学にて
第3段落
その後、近代自然法論のなかから啓蒙主義が成長し、道徳の主要言語は変わった。
普遍的に妥当する法、という自然法の観念の本質的要素は、たとえばカントによって継承されるが、それはもはや自然法ではなく、定言命法と呼ばれる。 カントの道徳哲学は、道徳を世俗的に論ずるという近代自然法論の切り開いた方向性を踏襲しているが、同じ方向性は功利主義によって担われ、19世紀後半から20世紀初頭の英語圏の規範学の主流となっていく これに対して、歴史のなかに真なる立場を探す歴史法学が興隆する。 自然法研究
第1段落
20世紀の「自然法」
20世紀前半の自然法研究は自然法のもつ規範的な要素に関心を寄せる、それ自体が自然法論としての性格をもつものであった
これに対して20世紀後半に自然法論研究をリードしたリチャード・タックの研究は、『自然権理論 —— その起源と発展』(1979)や『戦争と平和の諸権利』(1999)などのように、人権や国際紛争という現代的関心事にひきつけられているが、しかし思想史研究の手法に関するコンテキスト主義を推進する動きのなかでなされた歴史研究志向の強いものである リチャード・タック
第2段落
これらに対して、真理を研究する哲学的観点から歴史主義と実証主義を批判し、ホッブズ以降の自然法論をこれらにつながる近代的なものとして、それ以前の自然法論と対象させたのは、古典的自然法の復権論者と紹介されるレオ・シュトラウスの研究である 自然法の観念は法の観念と同じくらい古い、という通念に対して、自然と法のあいだにある緊張関係を指摘する、彼の議論は当時は特異であったが、今日では標準的に参照されるようになっている
個人に始まる社会構成原理として、自然法論を展開する英国の議論
絶対主義を支える原理として、自然法論を展開する大陸(ヨーロッパ)の議論
という区別
2. 近代自然法の背景
グロティウス
オランダ、アムステルダム
『自由海論』(1609)
『戦争と平和の法』(1625)
『捕獲法論』
グロティウスが亡くなって以降に出版された
書かれたのは1605年前後と考えられている
『戦争と平和の法』『自由海論』『捕獲法論』
第3段落
グロティウスの自然法に関する著作の執筆背景について
カトリックとプロテスタントの対立
君主への抵抗
教会と国家の関係
非西欧世界への進出
宗教戦争
〔彼が直面した状況の複雑さと、彼が携わった立場の多様性から〕自然法論の適用範囲の広さを示すと共に、それが当時の伝統的な学術体系の外側〔すなわち法学と神学から独立して〕で展開されうることを示している
3. 自然法の基礎
学の体系性と論証方法
第1段落
グロティウスが近代自然法の起点とされたとき、その理由として強調されたのは、実定法からの区別、および議論の体系性の2点であった
自然法の実定法からの区別
議論の体系性
〔議論の〕体系性とは、プーフェンドルフ初期の作品『普遍法学原理』のタイトルが、ユークリッド『幾何学原理』に倣っていることに現れているように、少数の原則から出発する演繹的議論によって展開される公理系を規範とする〔ことを指す〕
〔『戦争と平和の法』はこの意味では十全な体系性をしめしていないが、〕同様な意識があったことは『捕獲法論』から明らかである。『捕獲法論』においてグロティウスは、9つの規則から演繹される13の法律を示し、全体の議論をそれらに基づいて展開する。その際、議論の出発点は、無限に議論を遡及することはできないという理由から、「神の意志するところは法である」という命題に置かれる。
これに対して『戦争と平和の法』では、法の意義を否定する意見への反駁から議論が開始され、そのなかで自己保存と社会性が人間の自然本性として確認され、自然法について論ずるための基礎が据えられる。
自己保存
〔人間の自然本性としての〕社会性
「神の意志するところは法である」のは、三角形の内角の和が180度であるのと同じく自明の理である。これに対して、人間が自己保存を図るであるとか、社会的であるというのは、経験的に確認されることである。
自明
先験的
経験的
『戦争と平和の法』におけるグロティウス自身の表現を用いるならば、『捕獲法論』ではアプリオリな方法が用いられるのに対して『戦争と平和の法』ではアポステリオリな方法が用いられる。 アプリオリ
アポステリオリ
このように論証方法が模索された理由の一つは、近代自然法論ないし自然法学が、法学や神学と違って、学術の基盤となる規範的テキストをもたないことにある。
近代自然法論者は、そのような状況において、人間理性のもつ推論能力に基づいて普遍的に妥当する規範的な原則の体系を打ち立てようとするのであり、それはその方法についての模索を伴わざる得ない。
自然法の妥当性根拠と世俗性
段落1
グロティウスの場合
アプリオリな方法による『捕獲法論』
演繹的議論を始めるための出発点として、神の意志に自然法の根拠が置かれる
神の意志が法で、それが自然法の根拠であるとするならば、自然法の妥当性に議論の余地はなく、神の命令に逆らうことは原理的に許されない。そして神は罰し報いるのであるから、神の命令として自然法には強制力がともなっている。このような議論は主意主義と呼ばれる アポステリオリな方法による『戦争と平和の法』
人間の自然本性としての社会性という、観察される事実に、自然法の基礎が据えられる
自然法の内容はそこから理性によって明らかにされるという主知主義が用いられる。その結果、自然法は「たとえ神が存在しないとか、人間の事柄に配慮しないとしても」(『戦争と平和の法』)妥当すると主張され、妥当性根拠として神から独立する。この一文は、近代自然法の特徴とされる世俗性を宣言した一文とされる 段落2
世俗性についての議論は妥当性根拠だけでなく、認識経路、対象領域にも及ぶ
妥当性根拠
主意主義か、主知主義か
認識経路
啓示によるのか、人間理性〔自然の光〕によるのか
対象領域
内的信仰を論ずるのか、外的行為のみを扱うのか
近代自然法は、神学から独立した議論を展開する。その認識経路においては一致して人間理性に頼る。しかし、妥当性根拠と対象領域については、論争されるところであった
段落3
ホッブズとグロティウスの対照点
グロティウスが主意主義的議論と主知主義的議論のそれぞれで妥当性根拠とした観念を、ホッブズは採用しない。 彼は自然法 jus naturale を自然権 natural right として論じ、その結果、自然法の強制力を問わずに済ますことができたからだと言える。彼にとって自然法〔自然権〕は強制されるものではなく、自らの意志を行為に反映させる自由である。それゆえホッブズの主意主義は自然の法律 lex naturae については言われない。
自然の法律 lex naturae と自然法 jus naturale
ラテン語において「自然法」にはおよそ二種類あり、Natural Law に対応するのは lex naturalis であり、対して Natural Right に対応するのは jus naturale である。
lex naturalis は権利
lex
資格としての『権利』、あるいはまた他人の自律的領域の尊重を意味する『法的義務』
jus natural は法または規範
jus
「源泉 Quelle としての本性法則に、またそれに結ばれた当為に基づいているため、本質的に規範の総体なのである
6)Messner, Das Naturrecht, p.234. 『自然法』創文社、256頁。
キケロは次のように述べている。「法 ius の根源をたずねてみよう。その場合、優れた学者は法則 lex から出発するのがよいと考えた。この方法は、彼らが定義するように、法則 lex というものが自然に合致した理性であり、なすべきことを命じ、なすべきでないことを禁じるならば、おそらく正しいのだろう。そしてその理性が人間の心のなかに確立され、完成された場合に、法則 lex となる」(De Legibus, I, 6, 18.)。ところでE・バーカーの述べるように、キケロの ius と lex の用法は 2 ~ 3 世紀のローマ法学者のそれとは逆である。すなわち、ローマ法学者は lex を ius の一部と捉えたが、キケロにおいては ius が lex の一部である。ius は lex によって見いだされるのである。(Ernest Barker, From Alexander to Constantine, 1956, p.197.) ホッブズは法の強制性の源泉を、それが上位者の命令であることに求めるが、万人が自然状態において妥当する自然の法律は強制的ではない。強制性をともなった法律は、自然状態における人びとが自然の法律にしたがって自発的かつ相互に合意することで主権者が設立された後に、この主権者の命令によって初めて成立する。 段落4
プーフェンドルフ
道徳の多元性
段落1
このような論争は、自然法に固有の対象領域がある、との了解に基づいている。
グロティウスを自然法に導いたサラマンカ学派は、スペインによる非ヨーロッパ世界への進出にともなって、共通の権威の不在状況における正しい振る舞い方を論じ、征服という武力行使の是非を論ずるために自然法を用いた。 自然法は共通の権威の不在状況における対立、したがって戦争を論ずるための道具であった。彼ら〔サラマンカ学派〕の議論は正戦論の成長を促し、神学色のない法学的な、それゆえプロテスタント国でも受け入れ可能な議論も盛んになり、ジェンティリ『戦争の法について』(1598)が戦争法論の一つの頂点を示す。 アルベリコ・ジェンティリ
段落2
法の自然性を否定する当時の議論は、道徳の多元性をその根拠とする。
法が自然的であるとすれば、それは普遍的でいつでもどこでも同じであり、またいつでもどこでも適用するはずであるが、なぜ世界の各地で異なった法が用いられているのか。自然法論者はこのような議論に応えなければならない。
グロティウスの場合そのような見解は『戦争と平和の法』において、カルネアデス〔の議論〕によって代表される
その内容は、法それ自体は価値を持たず、それは実は特定の者たちの利益を表明するに過ぎないということ、法の内容が時と場所とによって異なるのがその証左であり、また自然に従うならば、人間も他の動物同様に、自己の利益を追求するように促されているのであって、それゆえ、法は自然的ではなく、正義を尊重するのは自己を犠牲にして他者の利益を促進するという愚行を犯すことである、というものである。
カルネアデスはアカデミック懐疑論者として知られている。アカデミック懐疑論者(アテネのプラトンのアカデミアで教えられていた懐疑主義の一種であることからそう呼ばれる)は、他のすべての知識が不可能であるという知識を除いて、すべての知識は不可能であると主張する。
カルネアデスは同意を保留するという自身の原則に非常に忠実であったため、クリトマコスは、師が実際にはどの主題についても何を考えているのか全く分からなかったと告白している。特に彼の長年にわたる骨の折れる研究の対象であった倫理学において、彼は道徳観念が自然と一致することを否定していたようである。彼は特に正義に関する第二演説でこの点を強く主張しており、その中で明らかにこの主題に関する自身の考えを伝えようとしていた。そして彼はそこで、正義の観念は自然から派生したものではなく、便宜のために純粋に人為的なものであると主張している。
自己保存と社会性
第1段落
このような、道徳の多元性を主張し法の存在意義を否定する議論に対して、グロティウスが対峙させるのは、人間はたしかに動物であり、したがって自己保存を図ろうとするのが人間の自然本性であることは間違いないが、
ただし他の動物とは違って、人間には理性があり、〔自己保存だけではなく〕社会への欲求も人間の自然本性である、という議論である。
自然法が徳の涵養かんようではなく、むしろ自己保存に向けられたものである、という議論は、道徳が何を担うべきかについての大きな変化を告げている。それは、まずもって秩序維持に向けられたものとなる。 ホッブズの場合
このような変化を示すもっとも極端な例はホッブズの議論である。
彼は人間の自然本性として自己保存のみを承認し、快の追求と苦の回避を人間の行動準則とする快楽主義的議論に基づく政治理論を構築した。
快楽主義 ≒ エピクロス主義
〔このような〕ホッブズの論じ方は、道徳の多元性を否定して、普遍的な議論を打ち立てるという点において自然法論としての特徴をもつ。
第2段落
グロティウスの場合
したがって、グロティウスが自己保存に加えて、社会性を人間の自然本性として描くとき、それは、ホッブズやエピクロス主義とは違うたぐいの議論として理解された。
グロティウスのそれは、ストア派のオイケイオシス論に基づいていると理解することができる。
ストア学派のそれでは、人間は成長につれて、生まれた直後の自己保存に動かされる存在から、理性に見合った社会性を帯びるようになるのであって、しかもこの社会の広がりは自分に近しいところから同胞社会へ、さらには全人類にまでいたるもの、と理解されている。
ストア派の議論 ≒ オイケイオシス論
オイケイオスはオイキア(家)に由来し、「自分がくつろげるもの、それは自分のもの」という意味です。この言葉は「所有物」、つまり何らかの力によって自分のものにされた疎外された物という意味ではなく、私たちが自然に住むもの、私たちの存在にとって好ましいものという意味です。それは全体性であり、平和な完全性です。
第3段落
ホッブズ〔エピクロス主義〕的議論と、グロティウス〔ストア派〕的議論との相異は、自然法の強制性に関する相違において大きな帰結をみる
ホッブズ〔エピクロス主義〕的議論
ホッブズは「望みがあれば平和を追求せよ」という自然の法律があると述べ、この自然の法律にしたがって自然状態における各自が自己利益の観点から主権者を設立する契約にいたる、と論じる
この自然の法律は、その内容については自己保存という人間の自然本性理解に基づいて客観的に決定されると同時に、他者から命令されるものでもない。自然の法律は自己立法でもなく、強制でもない
グロティウス〔ストア派〕的議論
所有権の不可侵、負債および利得の返還義務、約束履行義務、および刑罰の五つが自然法の基本的な内容であると主張される。
グロティウスにおいても自然法は徳の涵養よりも、自己保存の追求に向けられているが、
人間の社会性が自然本性とされることに応じて、経済交渉の場が想定され、それを支える権利と義務が自然法の内容とされる、だけではなく、そうした交渉を保障するものとして自然的刑罰の存在が主張され、自然法の強制性が示される
自然的刑罰権
第1段落
自然的刑罰権は自己保存の自然権とは根本的に異なる。
というのは、自己保存の自然権が権利を所有する当人によって実行されうるものであるのに対して、自然的刑罰権はたんに権利の所有者だけではなくそこに自然法違反があると判断する誰によってでも執行されうるものだからである。
人間の自然本性に自己保存しか認めないホッブズにおいて自然法は強制的ではないのに対して、自己保存に加えて社会性をも認めるグロティウスにおいてそれは自然的刑罰権という強制力をもつ。
第2段落
共通の権威の不在状況について規範的議論を展開しようとすれば、それは、そのような規範の妥当性根拠を示さなければならない。規範が権威によって裏打ちされていないからである。
観察される事実として、道徳の多元性を認めるならば、誰にとっても衡平なものとされる正義の存在に疑いがある。言い換えるならば、法が人為に依らない自然的なものであることに疑いがある。法の自然性が示されねばならない。
そのような法、自然法ならば、それは権威の不在状況においても妥当するだろう。しかしそれは強制力をもつのだろうか。そのような状態では、法の強制性は権威的な力によって担保されていないからである。
ここに、自然法の強制性を認めない極論〔ホッブズ〕と、自然的刑罰権を認める極論〔グロティウス〕が現れ、自然法と、強制権力 = 政治権力の関係が議論される枠組みが示される。
自然法と強制権力〔政治権力〕の関係
4. 自然法と政治権力
プーフェンドルフと「自然法の学」
第1段落
ビトリアが「新世界」の征服の是非を論じたとき、論点の一つは、教皇の権力と皇帝の権力がその地で作用するのかという点にあった。
ビトリアは、神聖ローマ帝国の領土であるスペインで、その中心大学の神学第一教授という立場にありつつ、教皇も皇帝も世界の支配者ではなく、彼の地〔「新世界」〕にその権力は及ばないと論じ、しかもその地が、権力の空白地帯なのではないということを、自然法上の権利に言及することで示そうとした。(ビトリア『人類共通の法を求めて』)
フランシスコ・デ・ビトリア
自然法が、その固有の領域において具体的かつ実践的な課題をもつことが、ここにおいて明瞭に現れる。それは、既存の権力の管轄権が及ばない状況である。
グロティウスはこのような状況を『戦争と平和の法』において「裁判の尽きるところ、戦争が始まる」と述べ、自然的刑罰権の存在を主張した。 自然法の論点
自然法は、いつでもどこでも誰にでも妥当する法である、という定義から、自然状態のみに関わるものではない。ここに自然法によって論じられるべき主題はなんであるのか、という論点が成立する
神学や法学と違い、自然法にはその主題の根拠とされるべき規範的なテキストが存在しないので、なお一層論争的になる
このような学術的間隙を埋めようとしたのがプーフェンドルフであった。
第2段落
プーフェンドルフ『自然法と万民法』
その要約版〔縮約版〕にあたるのが、プーフェンドルフ『自然法にもとづく人間と市民の義務』
『自然法に基づく人および市民の義務について』
第1段落
自然法は普遍的に用いられることのできる学術として何を扱うべきか。この点についての考えは、『自然法に基づく人および市民の義務について』の構成に簡潔に示されている。
彼の自然法論の特徴は、それを義務の観点から論じたことにある。
それは「人としての義務」と「市民としての義務」に大別され、それぞれ第1巻と第2巻で論じられる
第2段落
『自然法に基づく人および市民の義務について』第1巻の構成について
プーフェンドルフの倫理学は、自然的な自由、平等、共有の状態と合意によって私的所有が加えられた市場社会のそれである。だがそれは、共通の権威と権力が存在せず、したがって市民社会、政治社会ではない。
第3段落
『自然法に基づく人および市民の義務について』第2巻の構成について
近代自然法論の近代性は、自然法の求めるところが、徳の涵養よりも、自己保存の確実性の追求にあるとする点に見られ、同時にこの点は、その議論の批判的視点を支える。
第4段落
近代自然法論は、共通の権威が存在しない状態においても成立する規範についての体系的議論を展開しようとした。そのような近代自然法論にとって、自然状態における自然的自由と、市民社会における政府への服従との関係を整合的に論ずることは、ひとつの理論的課題である。
そのような議論は同時に、現存する政治権力の正当性を照らし出す判定基準となるためけっして現実から遊離した議論とはなりえず、加えて、大学で自然法を学んだ者たちが、グロティウスのような共和国の政治指導者、あるいは国王を補佐する役人としての社会的役割を担っていくのであれば、それは特定の政府形態のみを主張するものではありえなかった。 このような課題のなか、〔自然状態における〕自然的自由と、市民生活における政府形態の多様性を、整合的に説明する道具として用いられたのが、意思の統一としての主権の観念であり、これを自然状態から成立させるための社会契約であると言える。
だが、そこで用いられるものはそれだけではない。戦争による征服はグロティウスにおいてもプーフェンドルフにおいても国家結合の重要な要因とみなされる。そして戦争は、共通の権威が存在しない状態の規範的関係を議論する自然法論によってこそ、ふさわしく論じられる主題である。 近代自然法論は、自然状態における個人の行為の規範、自然状態から市民生活への移行、市民生活における主権の機能、そして国家間の関係〔戦争〕という四つの大きな主題を一つ繋がりの対象として論じた。
1. 個人の行為の規範〔共通の権威の不在における規範と、その妥当性〕
2. 自然状態から市民生活への移行
3. 市民生活における主権の機能〔意思の統一としての主権の観念〕
4. 国家間の関係〔戦争による征服〕
5. 自然法と現代
(私見:タイトルで「現代」と謳っているが、この章は「現代」についてではなく、自然法論に対するライプニッツの見解〔批判〕についてである)
ライプニッツによるプーフェンドルフ批判
段落1
ライプニッツによる、プーフェンドルフ『自然法にもとづく人間と市民の義務』への批判
一貫した原則から論理的に推論されているようなものではなく、自然法への表面的な理解以上のものをもたらさない。とりわけそれは、自然法の目的、対象、起動因の三点においいて誤っている。
目的
自然法の対象を現生のみに限定し、自然的理性による魂の不死性の証明を怠って、それを啓示に委ね、そうすることで神による賞罰という自然法の学に含まれる最善の部分を論じていない
対象
対象については、目的においてこれを現生に限定するのに対応して、自然法の対象を外的行為に限定し、魂〔内的信仰〕に及ばせない。これを道徳神学の対象とするが、真実や善と同様に正しさの観念も、人間だけではなく神に関わるのであって、したがって神的正義も自然法の学の対象とされねばならない
段落2
これらで問題にされているのは、自然法の対象や目的だけではなく、人間の自然的理性の能力をどのようにみなすのかという点であり、人間理性による神学と哲学の統一を目指したライプニッツらしい批判と言える
プーフェンドルフの議論が現生のみを問題にし、神学から独立した自然法学を構築するために、その対象を外的行為に限っていることは間違いない。この点について自覚的であったプーフェンドルフにとって、その指摘は必ずしも痛手ではないであろう。
これに対して第三の、自然法の起動因に関する指摘は重い
起動因
ライプニッツが自然法の起動因ということで意味するのは、自然法の妥当性の根拠であり、この批判は、主意主義的法理解に対する意義申し立てである。ライプニッツはプーフェンドルフにおける義務と法と正義の関連を問題にする
プーフェンドルフにおける義務と法と正義の関連
義務を、法に合致して行為することとし、
法を、上位者の命令とする。
そして、義務を、正義に適った行為と同一視する
このような議論のうちに、ライプニッツは、三つの細かな問題点と、三つの大きな問題点〔二つの大きな問題点とその根源的問題〕、そして一つの根源的な問題点〔プーフェンドルフの主意主義の難点〕を見出す
段落3
三つの細かな問題点
1. 〔自己立法によるものではないので〕義務を自発的に履行する者が〔原理的に言って〕存在しない
2. 上位者の存在しない状況で義務が存在しない
3. 〔義務ないしは上位者の命令の、謂わば外側に、法の根拠となる別の正義の余地がないので〕すべての法が上位者の命令ということになる
これら三点を指摘した後に、ライプニッツは、ここに自然状態に一切の正義を否定したホッブズのパラドックスが現れていると述べる。
残念ながらライプニッツはその内容をパラドックスの形式において示さず、主意主義からもたらされる二つの大きな問題の指摘に進む
二つの大きな問題点
1. 主権を与えられた者が暴君として振る舞ったとしても正義に反しないこと
2. 実定的な国際法が義務づけする力をもたないこと
段落4
主意主義の根源的問題
以上のような二つの〔大きな〕問題点の救済策は、プーフェンドルフもそうするように、神がその自然本性上、万人の上位者であることを認めることであるが、しかしそうしたところで主意主義が間違っていることは変わらない。
それは、〔グロティウスが言ったように、そしてホッブズが一部認めたように、〕たとえ神が存在しなくても妥当する正義があるからである。そして神以上に正しい存在はいない。この点を示すことができないところに主意主義の根源的問題はある。
正しさは、神においてその自由意志によるのではなく、神の知性の対象としての永遠の真理によることを主意主義は主張できない。主意主義の問題は、正義が神の本質的特性ではなくなるところにある。
「たとえ神がその自由意志によって正義や法を設立するのだとしても、正義は、実に、神の本質的属性となっていない」(Leibniz "Epistola viri excellentissimi ad amicum, qua monita quaedam ad principia pufendorfiani operis de officio hominis et civis continentur" 1709)
段落5
プーフェンドルフの主意主義の最後の難点
ライプニッツが指摘するプーフェンドルフの最後の難点は、なぜ人びとは主権者に従うようになるのか、別様に表現するならば、どのようにして人びとは自然状態を脱して市民社会に入るように強制されるのか、という問題
上位者が存在しない自然状態で、〔グロティウスが認めたように〕人間本性から自然法が作用するのでもなく、〔ホッブズが認めたように〕動物的欲求に基づく規則もなく、さらに自己立法も認めないプーフェンドルフ〔の主意主義〕にあっては、自然状態からの脱出を強制する要素はない。
この〔ライプニッツの〕批判が的を射ているかの判断は難しく、〔ライプニッツが〕言葉どおりのことを言おうとしていたのかの判断は慎重になるべきである。
人間〔の本性〕が社会的であれば、自然状態からの脱出は必ずしも強制的ではない。
また人間〔の本性〕が社会的であれば、それで必然的にその世界が調和的になるわけではないが、しかし正義も人間の本質的属性〔本性〕であり、人びとのあいだでの合意がなくても、〔正義は〕普遍的な規範でありうる
段落6
まとめ
近代自然法論者たちは、その方法や結論において対立する。対立は一致を前提する。
近代自然法論者が一致してなそうとしたのは、自然法という概念を用いて、普遍的に妥当する規範を、人間理性によって追求することである。
1. 正義とは何か、
2. 正義は人間の自然的な自由や平等と、いかなる関係にあるのか、
3. 社会秩序と安全の維持は、われわれにどのような制約を、どのように課すのか、
道徳の多元性を前提にして、問われるべきこれらの問いに向き合い、思考しつつ学ぶこと、そしてそれがいまなお大切であることを、近代自然法論はその遂行の様を通してわれわれに教える